四十雀の囀り日記

路上をゆるりと歩いたり、時に疾走したり。2004年から中国で暮らし、16年秋に13年ぶりに帰国しました。

倉本聰氏の富良野GROUP公演『走る』を観て

人はどこに向かって走っているのか。
そもそも走らなければならなかったのか。
そんな根本的な問いかけを突き付けられたような気がした。


脚本家の倉本聰氏が主宰する創作集団・富良野GROUPの舞台『走る』を3月初め、名古屋で観てきた。
東京で観るつもりでいたが、あっと言う間にチケットが売れ切れてしまい、わざわざ有給休暇を取って、妻と名古屋まで2泊3日の旅をした。
名古屋では中国時代にお世話になった妻の元同僚たちと再会を果たせたし、東山動物園では何気ない動物たちのしぐさに笑顔になる大人たちの姿を発見した。小さな旅は心を解放してくれるものだ。


演劇はまったくの素人で、学生時代に松本で観た「新宿梁山泊」以来だから、かれこれ25年ぶりだろう。
このブログも約4年ぶりの執筆となった。心に去来するものがないと、無暗に文章は書けないもの。


昨年秋まで日本を離れ、13年間を中国大陸で暮らした私は、中国人が経済成長の恵みを享受するのを身近にみてきた。仕事がなくても不動産投資の利益で億ションを軽々と買ってしまう友人もいた。
どこかでみた風景だと思いながらも、そんな彼らに感化され、東京で身の丈以上の5000万円もするマンションを購入したいと頭がいっぱいになっている時期だっただけに、倉本氏の作品をみて、もう一度生き方をもう問い直したなかったという自分の潜在的な欲求があったのだろう。


私は2年前、自分が難病に侵されているのを知った。ちょうど『走る』の演出をした中村龍史氏も罹っていると公表している腎臓の遺伝性の病気、多発性嚢胞腎である。すでに腎機能は普通の人の5割程度しかない。
人生のスタート地点から、自分が難病というハンデを負っていたことに40歳を過ぎて気づかされ、愕然とした。
4000人に一人という病気になぜ私がなるのか。ずっと健康で人並みの人間だと思って、仕事に没頭していた自分が、将来は普通の暮らしや仕事ができなくなるかもしれない。そんな絶望が頭をよぎり、逆らえない運命が悔しくて悔しくて「ちくちょう」と嗚咽した。


人生には病気とか、震災とか、これまでのがんばりや努力を超えた運命みたいな事柄が襲ってくる。自分とは無縁と思っていても。大切な人々、かげないのない日常を一瞬にして失った東日本大震災の被災者の方々の現状を映し出す番組などを観る度、自分の置かれた運命と重ね合わせて、世の刹那を感じずにはいられなかった。


舞台では40人の役者たちが走った。ひたすら走りに走ったといってもいい。
ドッドドドと、鼓動のようにリズミカルな足音が舞台に響く。役者にしてアスリートのような筋肉が、過酷な舞台稽古を物語る。そんなに走ったら死んでしまわないか。走りに走る滑稽で悲しい役者たちの背後に無数の人々の姿、自分の姿を重ねてしまったのだろう。


馬鹿野郎、そんなに走ってどこに行くんだ、そんなに走ったってしょうがないじゃないかまったく馬鹿野郎。
だが私たちは、何があろうとも走っていなければ自分の道を見失う。とにかく前を向いてがむしゃらに走れ!
そんな相反する感情が沸き起こり、まさに人類という存在の愚直さに目頭が熱くなった。


ハンデを負った私は、彼らのようには走れない。
だからこそ自分なりの道を走り、自分だけの物語を紡ぎ出していくしかない。
億ションを買って我が世を謳歌する人には気づけない道もある。人生がある。

誰かに勝ちたいと思って走っていたわけではない。
もっと人生に大切なものがある、それをみつめていきたいと思っていた。
そんな生き方が私には合っていると思う。そこにゴールもなければ、勝者も敗者もあるはずはない。


「生きるとは、自分にふさわしい、自分の物語を作り上げてゆくことに他ならない。」
臨床心理学者の故・河合隼雄氏と作家の小川洋子氏の対談集「生きるとは、自分の物語をつくること」(新潮社)での言葉を思い出した。


世の中には、名もなき無数の英雄たちが生きている。


ドラマ『北の国から』の初放送から36年。市井の人々の人生を描いてきた倉本氏の最後の舞台となった『走る』。昨夜はその発祥の地、富良野でラストを迎えたようだ。あの舞台を走り続けてくれた役者の方々に感謝。
私は奄美大島、沖縄など南の島が専門で、富良野どころか、北海道すら行ったことはないが、富良野塾富良野GROUPの走りが私のような転機にある人の心に響いて届き、これからも生き続けていくだろうと信じている。


さあ、私もきょうから前を向いて走っていこう。
でも時には立ち止まって後ろを振り返ったっていい。非効率で、非科学的で愚かだっていい。それだって立派な人生の一部なんだから。