四十雀の囀り日記

路上をゆるりと歩いたり、時に疾走したり。2004年から中国で暮らし、16年秋に13年ぶりに帰国しました。

東京のおじさん

いつも吉沢家の中心にいた「東京のおじさん」こと、伯父さんの初盆が終わった。
早いものでおじさんとおじさんの愛犬が亡くなってから1年が経つ。


2人の娘さんで、僕の従姉妹たちとその旦那さんたち。信州・伊那谷の家でワイワイと食事を囲みながら話した。
おじさんたちも変わらぬ賑わいに喜んで参加していたことだろう。


おじさんは、東京で自分で興した工務店が破産したり、最愛の奥さんを病気で亡くし、息子にも自死で先立たれ、自身も肺気腫を患ったりと悲運が重なったが、いつも明るく前向きで、みんなから好かれ尊敬され、そして世界中で一番格好いい男前だった。
僕は青年の頃、密かに「日本のポール・ニューマン」のようだと感じ、憧れていたものだ。


おじさんは長野の高校を出て、東京にやってきた当初は貧しく、弟である私の父から生活費をもらってやりくりしたこともあった。
なかなかありつけないスイカを持っていくと喜んで食べていたという。


いつも故郷を想っていた。昨年、桜の時期に東京の病院に見舞った時も、病室から見える散ったばかりの桜の木を遠くに眺めながら、「俺は次の春に田舎の桜を見られるかどうか分からないが」とさみしそうに話していた。


元大島の家は、かつてお盆や正月は笑顔が絶えなかった。
10円玉で勝敗をかけながら、トランプゲームをして夜更かししたものだ。


いまだ家の棚には、おじさんが手作りした梅干しやショウガ漬け、虫除け薬までが残っている。
僕が中国から帰るたびに、この棚の前でおじさんは「梅干しは百年物もあるほどだ」と熱心に話していたものだ。


初盆が終わると、吉沢家はこの田舎に集まる機会がほとんどなくなる。
主人がいない青々と茂る広い中庭がまぶしい。
いつまでもこんな集まりがあるものだと思っているが、それは幻想なのかもしれない。
打ち上げ花火のような夏の儚さを感じた。


猛暑になった伊那谷。夕暮れ時にシルエットに浮かび上がる中央アルプスを見上げた。
「どんなにつらいことがあっても明るく強く生き抜いて欲しい」それがおじさんが残したメッセージだったように、今になって思う。

  

人が集まれる場所。そんなところを作りたい。
そんな漠然とした思いが心の隙間に入り込んできた。