四十雀の囀り日記

路上をゆるりと歩いたり、時に疾走したり。2004年から中国で暮らし、16年秋に13年ぶりに帰国しました。

足元の金魚鉢

 昨日の土曜日。ひとり上海の地下鉄2号線に乗って、買い物に出かけた。
人もまばらな車内の座席に腰掛けると、向かいの席に金魚がいた。
息苦しそうに水面から口を出してパクパクとさせている真っ赤な体。僕は、場所に不釣合いな金魚の姿に見入りながら、その数を数えはじめた。

 若い夫婦だろうか。その間に挟まれた男の子のためにどこかで購入してきたのだろう。彼らの足元に、プラスチック製の小さな金魚鉢の中に金魚がいたのだ。
 夫婦は金魚の存在などすっかり忘れたかのように、笑顔で会話を楽しんでいる。僕は、小さな入れ物の中で苦しそうにしている金魚の姿に見入りながら、タフさとか、耐性とかいう言葉の意味を考えた。僕がもしあの金魚の一匹だったとしたらと想像して、少し息苦しくなる。きっと僕なら耐えられなかったかもしれない。
 

 自分がタフかと問われれば、否だと答えるほかない。むしろ神経質で弱い。か弱い一匹の金魚だ。
 学生の頃から、日本を飛び出していろんな場所を冒険したり、旅をしてきてはいるが、タフだからできたわけではないと思っている。

 日本は、手入れの行き届いた美しい金魚鉢。だが、どこか息苦しい。僕は、小さな金魚鉢の中で生きていく自信がなかったからこそ、そこから飛び出して海へ逃げ込んだ。そう、まさしく“逃げ”たのだ。僕が子供の頃に流行った歌「およげたいやきくん」とあまり変わらない。


 そういえばあの歌は、ちょっとした物語になっていたのを覚えているだろうか。
 たいやき屋のおじさんと喧嘩して、自由を求めて海へ逃げ込んだたいやきくん。広大な海の中でいままで見たことも聞いたこともないろんなものと出会う。楽しくてしょうがない。おなかが空いたので、見つけた餌を口にしてみたら、その中に針が入っていて再び見知らぬおじさんに釣り上げられてしまう。


いちにち およげば ハラペコさ
めだまも クルクル まわっちゃう
たまには エビでも くわなけりゃ
しおみず ばかりじゃ ふやけてしまう
いわばの かげから くいつけば
それは ちいさな つりばりだった
どんなに どんなに もがいても
ハリが のどから とれないよ
はまべで みしらぬ おじさんが
ぼくを つりあげ びっくりしてた

やっぱり ぼくは タイヤキさ
すこし こげある タイヤキさ
おじさん つばを のみこんで
ぼくを うまそに たべたのさ
(高田ひろお作詞/佐藤寿一作曲「およげたいやきくん」から抜粋。)
http://www.asahi-net.or.jp/~kx8y-hgmt/midi/otaiyaki.htm


 いまの僕だったら、わざと糸のつながった餌に食らいついてもいいかもしれない。たいやきくんのように再び食べられてしまうことは、決して悲しいことだとは思わない。 
 僕は決してタフではないかもしれない。だが、金魚鉢の中も、広い自由な海も知っていることは誇っていいと思っている。

 ちなみに、地下鉄の電車の中。家族の足元にいた金魚はあわせて7匹だった。なぜ彼らが5匹や、8匹や、10匹という区切りのいい数ではなく、7匹にしたのかは分からない。たいした意味なないだろう。ただ、彼らに選ばれなかったれ残りの金魚の中に、僕がまだ泳いでいるのかもしれないと想像した。