四十雀の囀り日記

路上をゆるりと歩いたり、時に疾走したり。2004年から中国で暮らし、16年秋に13年ぶりに帰国しました。

南三陸にて

三陸にて

 

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3・11から9年。
東京駅から新幹線に乗り、仙台に到着した僕ら夫婦。駅前でレンタカーを借り、約2時間ほどのところにある宮城県南三陸町を訪れた。
 
地震当時、僕らは中国の広州に暮らしていた。昼寝から起きた僕は、中国中央電視台CCTV)が盛んに流す現地の映像に驚愕したのを覚えている。黒い津波が海岸沿いの町々を飲み込み、火災があちこちで起こる。この世の映像とは思えない地獄絵図だった。中国のアナウンサーも尋常でない出来事に声が上ずっているようだった。
メディアで仕事をしていた僕はそれなりに忙しくなった。福島原発の事故の影響で中国や韓国などが日本などからの食品の輸入を規制することになり、現地にある日系企業の生産も大きな障害を受けた。その取材に追われたのだ。
 
 
震災後、震災地を訪れたのは、僕ら夫婦にとって初めてだった。
 
高さ16.5メートルの津波が襲った南三陸町は、ほぼ跡形もなく流されたらしい。
住宅の約70パーセントが全壊。町役場をはじめ、警察署、消防署、公立病院も大きな被害を受けた。なかでも防災対策庁舎では、最後まで町民に避難を呼びかけていた多くの職員らが犠牲となり、「防災庁舎の悲劇」として知られている。
 
かつてにぎわいのあった町の中心部には昨年12月、震災復興記念公園「祈りの丘」が完成していた。僕はら南三陸町の復興の象徴でもある「南三陸さんさん商店街」でしっかり買い物をした。その後、バベルの塔のような形をした高さ20メートルの丘の頂上部まで登り、手を合わせた。
 
南三陸町(当時の人口1万7,000人)の死者・行方不明者は831人。
 
丘から海はすぐ近くにあった。
あの時とは全く違う穏やかな海が、太平洋に向かって広がっていた。
水面で反射した無数の光のつぶが瞳に飛び込んでくる。
その光の上空には、10羽ほどのウミネコが白い斑点をつくってゆっくりと輪を描くように飛び回っていた。
 
神様、仏様は信じていない僕だが、恍惚とキラキラとした光の水面を眺めていると、831人の魂が生きる別次元の世界に繋がっているかのようにさえ思えた。
 
大自然を征服できると考えた人間の傲慢さと愚かさ。
生きるために生きた人間の闘いと人間の儚さ。
大切な人を失った人間たちの深い悲しみと愛おしさ。
まとまらない思考が次々と押し寄せてきた。
 
花粉症のせいなのか、その光景のせいなのか、瞳の奥からこみ上げてくるものがあった。
 

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南三陸町の震災復興祈念公園「祈りの丘」
 
海の見えるカフェに入った。
作務衣を来た背の高い個性的なマスターと人懐っこい犬が出迎えてくれた。
 犬はシュナウザーという犬種でひょうきんな顔をしている。
 
海に面した洒落た木製のテーブルに座って遠くの雲を眺めていると、
赤いイチゴがひとつ載った青いクリームソーダが運ばれてきた。
 
「おいしそうね」と僕らが話していると、
マスターが再び厨房からひっこりやってきてもう一つのイチゴをお皿の上に置いてくれたのだ。
「2つあれば喧嘩しないよね」とマスターは微笑んだ。
思いがけないユーモアあるこころづかいに、「ありがとうございます」と僕らもイチゴを目の前にして笑った。
 
店の入り口に横になって眠っていた人懐っこい犬の頭を撫でて、僕は声をかけた。
 
「じゃあね、また来るね」
 
 
やさしさをくれたマスターが震災で息子さんを亡くしたことを知ったのは、
後でマスターが長年書いているブログを見つけてからだった。
そこには非常に短い文章で、
 
悔しい。
 
とだけ書かれていた。
 
 
これほど何気もない日常こそが愛しい、果てしなく愛しいと思ったことはなかった。