四十雀の囀り日記

路上をゆるりと歩いたり、時に疾走したり。2004年から中国で暮らし、16年秋に13年ぶりに帰国しました。

永遠に生きよう

 自爆テロ
 パレスチナでは、「ジハード」(聖戦)と呼び、18歳の女子学生や結婚を控えた28歳の女性までもが自爆テロへと向かう。爆弾を腰に巻きつけ、人々でごった返すバス内で自らの肉体とともに爆破させる。これからという若い人たちがなぜ自ら命を絶とうとするのか?私には分からない。まったく理解できない。


 玉砕。
 DVDで「硫黄島からの手紙」を観た。兵士たちが地下壕の中で、「天皇陛下万歳天皇陛下万歳」と両手を挙げて叫び、手榴弾を自分のヘルメットに叩きつけ、最後に胸に抱えるようにして「玉砕」していく様子を描いていた。無惨にも赤い内臓が飛び散る、頭部がぶっとぶ。

 
 銃乱射。
 この4月、アメリカのバージニア工科大学の構内で32人もの学生と教官らが銃によって殺された事件があった。犯人の23歳の韓国人学生、チョ・スンヒは現場で自殺した。ここ中国でも新聞や雑誌でよく取り上げられている。
 

 これら3つは、共通している部分がある。
 それは、弱者が加害者になっていたり、自殺していたりしているということ。訴える手段を持たなかったり、状況を変えうる力を持たなかったり(あるいはそう思い込んでいるだけだったりするが)して、極限まで追い詰められているということ。そして、人の死に対する異常なまでの執着がある。


 チョ・スンヒは、犯行直前に自らビデオを撮っていた。犯行に使われることになる拳銃を両手に構えて、カメラに向かい格好をつけていた。米国では事件直後にNBCでテレビ放送され、寮の同室だった学生はその映像をみて驚いたという。「彼の笑顔を初めて見た」と。




 かつて、柄谷行人は断定している。
「殉教への熱狂は感性的有限性を超えて永遠の生命を獲得する「死の欲動=不死の欲動」にほかならない」
これを分かりやすく表現すれば、強烈に生きたいという欲望にもだえる。だが、どうせ死ぬのなら、無駄に死にたくない。「もう2度と死なないように死にたい」という人間のDNAに組み込まれた強い欲のことなのだろう。



 柄谷の言葉をよく読んでいると、犯人の韓国学生がなぜ犯行前のビデオの中で笑顔をみせたのかが少しだけ分かるような気がする。

 史上最悪の事件を起こして死ねば、チョはもう2度と死ぬことはないと思ったのかもしれない。友人もなく、学生や教官の間でも疎まれ、学校では名前など無いに等しかったはずのチョの存在は、学校の歴史に刻まれ、永遠に生きることになる。
 もうすぐ獲得する永遠の生命を思い、彼は初めて微笑したのだ。人を大量に殺し、永遠に生きようとする悪魔のような欲望に感じまくり、エクスタシー(絶頂)を迎えようとしていた。チョが、ビデオをテレビ局に送りつけたのも、自分の悪魔としての存在を世界にみせつけるためだろう。






 チョは、何よりも自分を疎外した学生たちの中で、そして恨めしい世間の中で永遠に生きようとした。そしてそれはある意味で成功した。
 だが、限りなく卑怯で醜い。なぜなら、他人の命を犠牲にし、自分だけは永遠に生きようと願うものだからだ。



 ※追伸;約1ヶ月ぶりのブログ更新なのに、シビアなネタでごめん。夕食も食わないで書いてたからお腹が減った。これからご飯を炊いて、納豆でもかけて食べよう。明日は仕事だな〜。また忙しくなりそう。