僕はピンボケ
曖昧さは素敵だなあ、と思うようになりました。
例えば、好きでも嫌いでもない。その中間の曖昧さ。
女「私のこと本当に好き?」
男「そんなこと聞かんで!(焦り)」
女「どっち?」
男「うん」
女「うんって、どういうこと?」
男「うん・・・・」
この曖昧さは、言葉になりません。中間よりちょっとだけ「好き」の方に針が振れている感じです。
そもそも、日本語には中間的な感情を表現する語彙が用意されていない気がします。だからといって、「どっちでもない」と”断定”するのも語弊があります。かなり誤解の恐れがあります。
「死ぬほど好き」だとかいって恋愛に溺れている人間より、この曖昧さで結ばれている人間関係がとてもまともな気がして、ほっとします。時にむかっとして嫌いになったりするのも、それはそれでいい関係だなと思います。
話をちょっと変えて、写真のこと。
僕は仕事をしていたときは、かなりピントにこだわっていました。ピンボケは悪でした。
最近、日本の大物写真家にお会いする機会があり、彼の作品をみて感動しました。ボケだらけです。というか、ピントを合わせようという意思が感じられないのです。
どれも被写体が曖昧です。
しかし、写真に動きがありました。写真をとっている人と、撮られている人とのコミュニケーションがあったし、なにしろカメラの周りにいる人間が生きてるぞーっていう感じが出ていて、素直にカッコよかったのです。
で、この僕もそもそも曖昧な存在なのです。生きてるから、心も体も常に変化している。形を変えない固まった銅像なんかじゃない。
ところが、本当は曖昧なくせに、理屈や肩書きを持ち出して、あたかもしっかり過去から未来へとピントがあった人間のように振舞おうとする。
そんなのは相当にカッコ悪いです。生まれてからの存在自体がピンボケのくせに・・。
今年はこれでいきます。「(高倉健風に)僕はピンボケですから・・」