頑なな芯の弱さ
いつの頃からか、信念をまげないのは強さではなく、弱さなのかもしれないと感じるようになりました。僕はずっと間違っていたのでしょうか。
こんなにも簡単に傷つき、血を流している皮膚をみて、他人は嘲るのです。
頑なな芯があればこそ、人は傷つきやすいもの。ゴムボールのような柔らかな心にどうしてなれなかったのでしょうか。
生きるための頑なな僕の心が、生きようとする僕を苦しめていたのです。
深夜、ベッドの中でいつまでも眠られずに考えていたのは、他人の強さではなく、自分自身の弱さでした。出口がみつからずに、ずっと夢の中の闇雲を走っていたのです。
それでも、生きていくためのカメラポジションがあるとすれば、僕がカメラを向けるのは、弱さです。観察者としての僕が向けていきたいのも、やはり弱さなのかもしれません。
時代が求めるのが強さであれば、僕はその反対をみていたいだけ。それは、正しい、間違っているという視点からの判断ではなく、ただ僕自身が居心地がいいというだけにすぎません。
気を付かなければいけないのは、偽善は強さの中だけではなく、弱さの中にも潜んでいること。時代をみる確かな目は、どちらにも存在していないような気がしています。
強者になると弱者をいじめる。強者が負けると、弱者がいじめる。同じことです。
本当に信じられるのは、自分の信念を信じている強者ではなく、自分の信念を疑える弱者なのかもしれません。