四十雀の囀り日記

路上をゆるりと歩いたり、時に疾走したり。2004年から中国で暮らし、16年秋に13年ぶりに帰国しました。

自然に宿る人の気持ち

 僕の実家の信州の家は、森がほんとうに近くにあります。森まで50メートルぐらいです。

 森にはきれいな小川が流れていて、赤い甲羅のサワガニや、コロコロした小さなタニシがたくさん生息していました。子どもというのは、誰でも外で遊ぶのが大好きです。僕は、小川の中で暮らす生物の動きをみているのがたまらなく好きでした。

 サワガニは、僕らが近づくと、気配を感じてサッと穴の中に隠れてしまうのです。僕ら仲間たちは、サワガニに見つからないよう、背を低くしてそっと足を忍ばせて水面に近づきます。そしてすばやくサッと手を水の中に入れて、奴らを捕まえるのです。

 ハサミに手を挟まれないように胴体を持ち、よく観察します。でも捕獲に成功したからといって、僕らはサワガニを食べるわけでなないし、家に持ち帰っても飼えるわけではないので、またもとのところに戻してやるのです。それだけでとても満足でした。これを何度と繰り返したか分かりません。僕ら少年はいったい何を学んだのでしょうか。  


 そんな遊びも忘れた中学生の頃。小川からガガガーという異音が響くようになりました。町役場が行う河川工事です。水が氾濫しないよう、硬いコンクリートでかためてしまったのです。

 森から近所の子どもたちの声が聞こえなくなりました。夏になると近くの保育園の子どもたちもよく水浴びにきていたのですが、彼らも来なくなりました。

 コンクリートで固められてしまった小川は、水が「効率」よく流れます。ところどころでよどんだり、横穴の中に流れ込んだりしている箇所がありません。そのため流れがきつくなり、大人でも水の中に立っていることはできなくなりました。危険な水路となったのです。

 そして、サワガニたちもいなくなりました。とてもさみしかったのを覚えています。自然の中に、ヒトの気持ちが宿っていることを知ったときでした。
  

 大人となった僕は、仕事の関係で、自然保護と開発との対立問題に直面することが多かったのです。開発を進める側は、この森を保護しなければならない根拠を示せと要求します。

 森を守りたいという人たちは大概、生物の貴重な遺伝子を守るとか、地域の生態環境を保護するのだとか、あとでとってつけたような科学的な根拠を持ち出してくるのですが、大した説得力も示せずに終わることが多かったように思います。

 それで開発側は追い討ちをかけるのです。「それみろ。自然保護論者はただ感傷的だ。何の根拠もなく反対している」と非難するのです。


 僕は思っていました。「森が好きだから」という理由でいいじゃないかと。「好きだ」というその気持ちだけで十分ではないかと思っていました。

 私たちの気持ちが宿る森を壊さないでほしい。無くさないでほしい。これ以上の大切な根拠はないような気がいまでもしています。
 

 人の気持ちが宿る森を大切にする。これは人間がやらなければいけない仕事だと思っています。たとえそこに科学的な根拠がないにしても。


 
(なんだか上海という場所とまったく関係ない話ばかりですが、思いつくままに)