四十雀の囀り日記

路上をゆるりと歩いたり、時に疾走したり。2004年から中国で暮らし、16年秋に13年ぶりに帰国しました。

路上の視点

上海路上

 高い地点から、世界を見下ろす。

 低い地点から、世界を見上げる。

 いずれの視点も、世界への段差がある。観察者と対象者の間に、明らかな距離がある。この段差は、お互いの関係性を冷たく突き放して、反発し合う性質からどうしても逃れることはできないように思う。例えば、日本人が中国をみる視点は、前者なのかもしれない。中国人が日本を批判する視点は、後者なのかもしれない。まったくその逆かもしれないが。



 僕は、路上の視点を忘れたくない。 




 昆明で知り合ったルポライターの友人は、最近上海で暮らしはじめた。都会の片隅で、物乞いをする浮浪者らにインタビューをして歩いている。浮浪者と街角で語り合っていると、通りすがりの人々が興味深げに取り囲んだりもするという。彼が知りたいのは物乞いをする理由や理屈ではなく、物乞いをするようになるまでの人生の細部だ。彼らがの生活や人生の細部を知ることは、自分がどこにいるのかを知る手がかりになるのかもしれないと言う。恵まれた高い地点から、世界を見下ろしていただけの僕ら日本人の貧弱な視点が、暴かれるのかもしれない。
 
 上海で知り合った男性は、中国人女性と知り合い、ここ上海で結婚した。男性は上海の日系社会でもかなりトップのランク(そんなランクがあるのか)の肩書きを持つ人間だが、日本人から中国人の彼女へ向けられる差別的な視点を敏感に感じとったらしい。友好的な態度とは裏腹に、「私たち日本人といっしょにしないで」という日系社会の排他性を嘆いていた。まったく違う視点を持つ中国人女性との出会いが、彼自身の視点をも変えたのかもしれないと思う。もうすぐ彼は彼女を連れて日本へ帰る。

 
 人には対象に寄り添おうとする姿勢が大切なんだと思う。生まれた環境も違い、境遇もまったく異なる他人とは、一生同じ位置には決して立てないかもしれないが、同じ路上の上で隣に寄り添って歩こうとする姿勢が、人を近づける。

 僕もここ中国で、自分の視点を見つめ直さないといけない。自分の欺瞞に満ちた視点をも疑いながら、世界をみつめ直す作業が必要だと思う。そのためにいまこうして上海に暮らしているのだと思いたい。