四十雀の囀り日記

路上をゆるりと歩いたり、時に疾走したり。2004年から中国で暮らし、16年秋に13年ぶりに帰国しました。

世界の片隅で「○×△」と叫ぶ

 きのうの夜は、アパート近くの台湾料理屋で、2ヶ月ぶりに会った日本人の友人と2人で台湾ビールを飲みながら語り合いました。彼も昆明に留学していた仲間で、3ヶ月前から上海にある日系企業の工場で働きはじめています。僕らは仕事のこと、上海のこと、女のこと、将来のことなどを話しました。
 
 僕らはやっぱり日本人。話題に多く上るのは、美しき故郷・日本のことです。
 なんだかごちゃごちゃしていて、頭に来るほど出たら目な中国。それに比べると、法律から社会保障、教育制度、衛生環境のすべてがきれいに整っている国です。最近日本では、機会や富がある階層に偏る不平等な「格差社会」とかいう言葉が流行っているらしいですが、所詮しれています。人力車とベンツが同じ道を平行して走る中国にはまるで及びません。日本は社会主義国家のように平等な社会。中国という世界の片隅から日本を眺めたら、そう思うのです。

 日本の社会に感じる閉塞感は、僕らが誇りにしてきたはずのこの平等社会の中にあるのかもしれないとすら思うようになっています。個人は努力しなくても、自らの力で這い上がらなくても、なんとなく暮らしていけます。誰もが同じテレビ番組を見て、同じ雑誌を開き、同じ新聞を読む。マクドナルドで同じハンバーガーを食い、セブンイレブンアサヒスーパードライを買ってナイターを観ながら飲み干します。まるで1億3000万人がほぼ同じ生活をしているよう。そんな平等社会では、個々人が個性を失い、考えることをしなくなります。

 時には人とぶつかり合ったり、慰めあったり。ひとり一人がヒトとして成長するには、自分だけの生身の体験を必要とするはずなのに、1億3000万人が同じ情報の中でバーチャルな体験しかできないと、人は生きている実感を失くしてしまうような気がするのです。でも、ごちゃごちゃした中国では生きている実感をつかみ取れる。

・・・そんな話を取り留めもなくしていたら、時計はもう深夜の2時近くです。彼と別れて部屋に戻ると、僕は歯も磨かずに、そのままベットで眠りについてしまいました。
 

 そしてきょう月曜日の朝。目覚めて時計をみると、10時を過ぎています。会社の始業時間は9時半です。


 世界の片隅で「寝坊だ!」と叫び、ベッドから飛び上がりました。


 ※追伸:映画「世界の中心で、愛を叫ぶ」を、こちらのコピーDVDでやっと観ました。恋がしたくなりました。