四十雀の囀り日記

路上をゆるりと歩いたり、時に疾走したり。2004年から中国で暮らし、16年秋に13年ぶりに帰国しました。

先走るキーボード

 今回の日記は、素直に書いちゃおう。飾らずに素直に。

 僕はもう文章を書いて10年になります。それなりに文章を書く技術は磨いてきましたが、最近はキーボードが先走るようになってきてしまったのです。「キーボードが先走る」って何でしょう?今回は飾らずにやさしい言葉で書いていきます。



 たとえば新聞。新聞の記事というのは、ほぼ決まった型があります。訓練された記者であれば、読売だろうが、朝日だろうが、地方新聞であろうがほぼ同じ内容の記事になっています。誰が書いたか区別がほとんどつかない。申し合わせたように見出しもいっしょです。

 記者というのは不思議なもので、型にはまった文章を何年も書き続けていると、世間(大多数の読者といってもいい)の倫理観を敏感に感じ取って、その倫理観の枠内で記事を完成させる技術が身についてきます。そういう技術を無難に身につけた記者が良い記者の条件でもあるんです。そもそも記者という職業は自分の思考や感性なんてものは一切必要としていませんから、結構アホでも務まるんですね。

 ところがそこでもっともっと大変な問題が発生しているんですよ。当たり障りの無い世間の倫理観が、いつの間にか自分のものであるかのように錯覚するようになってしまい、さらには自分の言葉すら忘れてしまうのです。友人や家族と話す言葉すら、すでに自分のものではなく、世間一般の倫理観の中で無難に言葉選びをしてしまっているのです。


 そして僕もそうでした。新聞社の中で訓練され、洗脳されていた僕もすっかり自分の言葉を失っていました。いまから2年ほど前ですら、「私」や「僕」という一人称での文章がまったく書けなくなっていたのです。自分本来の思考や感覚が、脳みその奥に引っ込んでいることに気づきました。

 いまは、自分が何を感じ、何を考えているのかを表現しながら自分の言葉を少しずつ取り戻していこうとしている過程です。このブログでもいろんな文章の形(時に奇抜な)の試みをしようとしているのもそのせいなんです。

 でも、最近気づいているのは、その文章の型ばかりを気にしすぎて、心がこもっていないな〜ということです。技術が先行している。キーボードが先走っているとは、技術が先走っているということなんです。



 雨、かえる、しんだ、かわうそ


 どこかで読んだのですが、こんな文章だったと思います。脳に障碍のある小さな子供が書いたものですが、とても美しい文章だと思いました。「かわいそう」でなく、「かわうそう」と間違って書いていても、拙いからこそ僕らに伝わってくるものがあったりします。

 雨が降る中、道端に飛び出してきたカエルが、車かなにかに轢かれてつぶれて死んでいる。それをみていた脳に障碍のある子供が、「かわうそう」だと素直につぶやく。

 技術はないけれど、ここに子供の素直な心がこもっています。型にはまった新聞記者には逆立ちしても書けない文章です。世間はコミュニケーション力だ、表現力だなんだと、技術をやたら気にしていますが、そんなのは心があってこそのこと。つぶれて死んだカエルに視点を向けられる人としての感性があってのことです。自分の思考なり感性のないコミュニケーションにはしょせんは共感なんてできません。
 

 雨、かえる、しんだ、かわうそ


 この拙い文章を思い出すたび、僕は思います。キーボードをカチカチと叩く前に、自分の心をコンコンと叩いてみようと。