四十雀の囀り日記

路上をゆるりと歩いたり、時に疾走したり。2004年から中国で暮らし、16年秋に13年ぶりに帰国しました。

むしろ切れる刃物は人を傷つけない

  その異常なほどの鋭さは、少年の僕にもひと目見ただけで分かるものでした。刺身包丁のように、白く光る鋭利な鎌。刃先に沿ってそっとやさしく手を触れただけで、細く深い傷口がパカッと開き、そこから音もなく鮮血が脈打って流れ出てきそうなイメージにとらわれて、少し怖くなって手を離したものです。
 
 桶職人だった祖父が磨いだ鎌の歯は、特別に鋭くなっていました。地面に繁茂した雑草を刈り払う時、その鎌を持った手を軽くスイングするだけで、細い草はパラリと気持ちよく地面に落ちていきました。
 農作業をしたことのある田舎の人しか分からないかもしれませんが、本来、草は大きくて目立つものほど刈りやすい。逆に、軽く細く目立たないものほど鎌の刃が引っかからず、まるで空を切るように刈り難いものなのです。
 
 活字に関係する仕事に就いて10年以上になりますが、活字は目立つニュース性のある大きな出来事をネタにすることが多い。ニュースとは、まるで下手な鎌でも刈り取れる目立つ雑草のようなものなのです。
 
 「切れない刃物こそ危ない」と祖父は言っていました。
 切れないからこそ、きばって力任せに雑草を刈り取ろうとする。力を入れすぎた刃物は、時に場所を誤って人を傷つけるのです。
 それは例えば、今日本のマスコミで騒がれている子どもたちの自殺の問題にも当てはまるような気がします。「自殺」「自殺予告」「いじめ」だとマスコミは騒ぎ、目立つ事象ばかりを力任せに刈り取って活字にする。
 マスコミという切れない鎌は、些細な細部は見ることもできず、ただ結論を急ぐあまりに、子どもたちまで傷つけてしまっているのではないだろうか。今は亡き祖父が「危ない」と言っていた切れない鎌は、もしかするとマスコミだったのかもしれません。


 鋭く小さな刃物は、きばって余分な力をかける必要はない。的確に対象を捉えて、小さな草でも刈り取ることができます。今大きなバックを持たない僕は、些細な事象でも切れ取れる鋭い視点を持つべきなのです。

 すきま風が吹き込む上海の安アパートで、切れないナイフで林檎の皮をぎこちなく剥きながら、僕は考えていました。