バベル
僕が暮らすアパートの真向かいに、人が誰もいない、巨大なビルがある。
この辺りでは一番高いビルで、40階はあるだろうか。
デベロッパーが資金不足になったとかで、建設が中止されてしまったのだろう。
ビルを人に例えるなら、頭(最上階)から腰辺り(20階ぐらい)までの上半身はガラスも入り、ビルとしての様相を呈している。が、足元の地上から10階ぐらまでは壁すらなく、コンクリートの柱がむき出しになっている。
上半身は服を着ているが、下半身は何も身につけていない巨人のように。
時が何年間も止まったままになっている。
巨人は、夜になっても黒い図体をみせて天空に向けて突っ立つ。
最上階の屋上からは作業用のクレーンが顔を出し、化け物のような手を霧で曇る暗闇の中に突っ込んでいる。
寝床にに入る前、僕はベランダで歯磨きをしながら、巨人を見上げた。
巨人はどうして生まれ、どんな人々が関わり、そして最後にはなぜこれほど無残に捨てられたのか。下半身をさらしたままのバベルの塔になったのか。
歯磨き粉の中で、僕のはなかい想像は溶かされていく。
実は、確かなものなどこの世の中にはひとつだって無いのかもしれない。
世界のお金を集め続けていたウォール街の金融システムでも、破綻リスクを取引するクレジット・デフォルト・スワップ(CDS)も、世界のものを作り続けてきた中国の「世界の工場」ですら、いつかは不確実性の中に拡散していく。
ただ、夢や希望、目的、目標、失望、絶望、…そんな人の気持ちのゆらぎが、この街を形作り、巨額を動かし、この巨人を動かしているだけ。
広州で出会ったバベルの塔。
巨人が突っ立つ世界の不確かさが、僕を眠りに誘う。
誰もが寝静まった深夜、誰もいないはずの高層ビルの中ほどの窓から、小さな明かりが差しているのかもしれない。