生きるかなしみ
ここ中国南部の大都市、広州市。その郊外にある、ハンセン病元患者が集団で暮らす小さな村を訪ねた。中国の大学生らの若者たち10数人といっしょだ。私は、ボランティアとしてではなく、単なる好奇心から参加した。
かつて暮らした奄美大島にも元患者たちが隔離されていた施設があり、地方新聞社の記者時代に取材で一度だけ訪れたことがある。
無理解、無知、誤解ほど、恐ろしいものはない。男性の元患者などは、病気が子供に遺伝するのを防ぐなどという理由で「断種」を強制された過去もあったという。
中国ではどのような場所にあるのだろう、どんな人が暮らしているのだろうかと知りたくなったのだ。
市内から列車と車を乗り継ぎ2時間。最後は、泥色の川を小さな船で島に渡る。その施設は、川の中洲のように陸地と隔離された場所にあった。粗い砂で固められただけの、いつでも流れ去ってしまってもかまわないかのような、脆い島の上に存在した。
施設は設立から40年が経つ。元患者は20人ほどが共同で暮らす。平均年齢は70歳ぐらいで、高齢化している。ある意味、老人ホームのようなものだ。
中国でも少しずつハンセン病に対する理解は広まりつつある。後日、乗り合わせたタクシーの運転手にハンセン病元患者の村に言ってきたよなどとと雑談をしたら、逆に運転手から「あれは簡単に治る病気。社会の無理解が彼らを今でも施設に追いやっているんだ」と力説されてしまったぐらいだ。
10数人の若者たちと元患者たちは、一緒に歌を歌い、ゲームをし、手に手を握って戯れた。笑顔が咲いた。夏祭りで上がる、淡く切ない花火のように。
若者たちに何ができるのか?社会から数十年も隔離されていた彼らの人生を癒すことができるのか。彼らが自ら問う。心の癒しなのか?
だが、僕が現場で感じたのは、残酷ながら
何もできない
という無力感だった。ほんの一瞬「交流」したところで、彼らの数10年という悲しみを癒すことなど決してできやしない。永遠にできやしない(ただもちろんボランティアを否定するわけではない)。
元患者たちは、僕らの名前を忘れ去るだろう。どんなに優しくし、親切にしたとしても翌日には簡単に忘れ去ってしまうだろう。僕ら若者たちが帰った後の村の小さな暗いベットに横たわり、彼らが枕元で無意識のうちにささやくのは、実の母親の名前だったり、父親の名前だったり、兄弟姉妹の名前だったり、いっしょに暮らすことが出来なかった子供たちの名前だったりするのだろう。きっとそうに違いないし、そうであってほしい。
そんなことを考えているとき、若者たちの喧騒の塊から、静かに離れていく老人があった。足が悪いために松葉杖をついて、さっき洗ったばかりの食器を手に持ってゆっくりゆっくりと自分の部屋に戻っていく。何十年も残酷なまでに続いてきたつまらない日常に戻っていく姿だった。僕も喧騒を逃れて、その背中を追って写真に撮ったのが、日記の最後に掲載した写真だ。
彼らの痛みを癒すことができない僕らのかなしみ。そんなちっぽけなものは埋もれてしまえと思った。社会に忘れられても、人々から捨てられても生きてきた元患者の老人たち。人生を埋め尽くした彼らの悲しみには、ちっぽけな僕らが寄り添うことなど、おこがましくてできない。
人は誰でも老いる。孤独になる。そしていずれは死んでしまう。それは何もハンセン病元患者に限ったことではない。
きっとハンセン病元患者たちのかなしい背中は、僕らの遠い将来の背中でもあるのだ。自分たちだけは彼らと違う、平和な人生を歩んでいるなんて思ってしまっているのなら、あまりに人生を楽観視しすぎている。
僕らが目を向けなければならないのは、いずれ誰もが運命として背負わなければならない孤独なのかもしれない。ハンセン病元患者と同じように最後は受け止めなければならない、同じ生きるかなしみなのかもしれない。
彼らの寂しい手を握り、その孤独な温もりに触れ、癒されているのは僕らのほうだったのだ。
脚本家の山田太一氏は書いている。この文章が書かれたのは、日本がまだバブルに浮かれていた20年前ということを特筆しておくべきかもしれない。
「本当は人間の出来ることなどたかが知れているのであり、衆知を集めてもたいしたことはなく、ましてや一個人の出来ることなど、なにほどのことがあるだろう。相当のことをなし遂げたつもりでも、そのはかなさに気づくのに、それほどの歳月は要さない。
そのように人間は、かなしい存在であり、せめてそのことを忘れずにいたいと思う」(『生きるかなしみ』山田太一編・筑摩書房 より抜粋)