四十雀の囀り日記

路上をゆるりと歩いたり、時に疾走したり。2004年から中国で暮らし、16年秋に13年ぶりに帰国しました。

遠い雷鳴

青い光が、切れ掛かった蛍光灯のように点滅して室内を照らす。
光と同時に、カーテンの隙間からみえる遠くの暗闇に、名も無きビル群が浮かび上がる。
誰かがあの窓の光の中で暮らしている。

暗闇が怖くなくなってから、どれぐらいたつのだろう。


この7月、雲南省シャングリラにあるチベット仏教の寺を訪れた。
昼間でも寺院内は真っ暗で、いくつもの蝋燭が並んでいた。
高齢な僧侶から、まだ10歳前後ぐらいの若い修行僧もいる。
地面を這い、地面から寺院の外に広がる青空に響いていくような彼らのお経の重低音に、僕はしばし心を傾けた。


彼らは何を信じているのか。

寺院の中を巡り、ぎょっと目をむいた仏像に睨めつけられた。
「何も信じていないおまえが何しに来たのか?」と問われているようだった。
位置を変えてもその目はずっと僕をにらめつけている、ように見えた。

阿修羅の顔とはこんな顔なのだろうか。
たぶんこれは仏の顔ではなく、きっと私たち人間の顔だろう。


人は、実体のないものほど信じるのかもしれない。
それは神や仏や心、希望だったり、たまにお金だったり。


でも、人はそれでいいと思う。
形あるものはいつかは変化し、醜く廃れ、土に消えていく運命の中にある。
形のない変化しない永遠を信じて何が悪いのか。信じていい。
人は古代からずっと、そうやって生きてきた。


彼はもうこの世にいない。
突然、光輝く真夏の山の中に自ら溶け込んでいってしまった。
7月の山になってしまった。まだ30歳代だった。


心に響くもの。信じられるもの。そして誰かを救う力になるもの。
それを長い旅の途上で拾っていくのが、僕ができる小さな仕事なのかもしれない。
彼や人々が生きた証を、誰かに伝えていくことが僕にはできるかもしれない。


ゴロゴロという遠い雷鳴に、近くの優しい雨音が重なりはじめた。
もう彼が去った夏はとうに過ぎ、もう10月に入ろうとしている。


もう暗闇の中であっても迷わないでほしい。
いつかは晴れると信じられる、生きる強さを身に着けてほしい。
信じられる強さを、あなたの胸の中にも。


手のひらではつかめなくても、心でつかめるものはずだから。
本当に大切なものは目に見えないはずだから。