四十雀の囀り日記

路上をゆるりと歩いたり、時に疾走したり。2004年から中国で暮らし、16年秋に13年ぶりに帰国しました。

Black Power

先月、南アフリカを初めて訪ねました。久しぶりの一人旅です。


世の中のカラクリを知ると、楽になる。

動くことでエネルギーが生じる。



5日間だけでしたが、南アフリカで暮らす日本人ビジネスマンなどに会い、そんなことを少し感じられた旅でした。
誰に会ってどんな話をしたかは、ここに詳しく書きません。また別の機会で。



ヨハネスブルグは「世界一危険」と言われる都市。いきなり黒人にナイフやピストルを突きつけられるのではないかとかなりビビッていましたが、幸い危険な目にも遭いませんでした。運が良かっただけかもしれませんが…。

街中を一人で歩いてスーパーに買い物に行ったり、ゲストハウスから中華街まで往復2時間程歩いたりしました。
途中、道端に落ちた小銭を拾って歩く黒人男性(50代)と一緒に話しながら歩いたり。

彼もスーパーに買い物に行きたいのだが、バスに乗る運賃がないのでこうして歩いている。彼の息子は23歳になり、自動車教習所の教官だとか何とか、身の上話が始まりました。

どうでもいいのだが、私のことを中国人と勘違いしているようなので、「ジャパニーズ」と強調してあげた。
それでもおっさんは「区別つかんな〜」というので、「あんたら黒人もね」と言い返してあげたら、笑っていました。「そんなんだよ。黒人ってもいろいろいて、言葉すら通じないからね」と。


ところで、自分は「世界一危険な街」を難なくひとりで歩けたのだから、もう世界中で歩けない街はないなと、変な自信を深めてしまったのでした。


ある博物館を訪ねた時、汚くてシンプルだけれど、メッセージ性を強く感じる看板が展示されていました。


「Black Power」

アパルトヘイトという白人支配からの脱却を求めた黒人たちが1980年代に使っていたものです。




アフリカ大陸だけで9億人。

いま、その黒人たちのパワーは、違う方向に向っているといいます。

方向は、豊かになろうとする消費力であり、エネルギー資源でもあり、明るく生きようとする力なのかもしれません。



ヨハネスブルグダウンタウンでサッカーに興じる若者たち)

ダウンタウンの街角で談笑する女性たち。巨漢も!)

(野菜市場の女性たち。ちょっとやる気なし)


一方、景気低迷で意識が内向きになっている日本。
世界のパワーの中心が大きくシフトしていることにも気づいていないのではないか。
そんなことを現地で、考えていました。



ヨハネスブルグの中華街。経営者は中国人で、そこで働いているのは黒人が多い)


(高速道路には「i-phone」の看板も。中間層の厚みが出て、消費力が高まりつつある)


ヨハネスブルグから国内線で2時間のところにあるケープタウンにも行きました。

喜望峰では、強い風が吹いていました。

大西洋からインド洋に抜ける風です。


こんなに気持ちのいい風を感じたのは久しぶりでした。

それは単なる風でなく、自分に新たなパワーを与えてくれるもののように感じたからなのかもしれません。

硝子

 今朝、手が滑りコーヒーメーカーの容器を床に落とした。
 
 しまったと思ったが遅く、スローモーションで落ちていく硝子の容器を眺めた。
 パリンという美しい音を出しながら容器の硝子が割れ、さまざまな形に分断された破片が床に散らばった。
  
 散らばった範囲は直径40センチぐらいか。

 手でゆっくりと硝子を拾った。数ミリの小さな破片も拾った。手がちくりとした。

 
  物を壊してしまったという後悔よりも、物が壊れることの新鮮さに触れる。

  「また買ってこよう。まったく同じものはないけれど」
 




 3カ月ぶりの日記。書きたいことはたくさんあるが、どれから手をつけたらいいものか。


 そう、新しいことといえば、南アフリカヨハネスブルク行きのチケットを予約したばかり。
  日程は、来年の2月、旧正月(中国の「春節」)の時。久しぶりの一人旅となる。

日本落城

城が落ちたーー。


 そんなイメージがしっくりくる選挙だったようです。今朝の日本経済新聞は社会面で、自民党の歴史的大敗を「落城」と見出しを打っていました。私はショッキングな見出しに釘付けとなり、仕事が終わった後、ラーメンをすすりながら読みふけりました。中国にいると日本の雰囲気というのがつかみにくいものです。

 5年以上も昔の話になりすが、地方新聞社の新聞記者時代のことを思い出しました。
 選挙事務所は、戦国時代の陣地のようなものです。この中に足を踏み入れてみれば、人に聞かなくてもこの候補は勝つのか負けるのか、だいたいの情勢がつかめることがあります。
   
 見る箇所は、壁に掲げられた応援人の署名が多いか少ないか。人の出入りが多いか少ないか。そして、事務所の雰囲気は明るいか暗いか。これを対立候補の事務所と比べてみると一目瞭然です。負ける可能性が高い候補の事務所は静かで、意外と落ち着いている。なぜか僕は鹿児島時代も、長野時代もそんな事務所の取材をすることが少なくありませんでした。

 中国にいて、日本の特徴として感じるのは、その静けさです。東京ですら、静けさを感じます。
 半年に1度ほど日本に帰国すると感じるのは、街の活気のなさ、若者の少なさ。そして驚くほどの静けさです。

 中国と違って騒音もなく、車も多くなく、空気は澄み、森の緑が目にしみます。僕は日本のそんな静けさが好きです。ぎらぎらしているより、なんだか他人や世界をよく見通しているような気がして。

 日本はかつてのようには成長できなくなりました。若者の割合が減り、高齢者が増え、おのずと市場は縮小するばかりです。戦後、日本のものづくりは徹底的に無駄をなくして効率化し、もうこれ以上は無理ですよというぐらいに生産性を上げてきました。それこそが成長力の源泉でした。

 ですが、急速に中国がこれに追いつき、追い抜こうとしています。低い賃金が支える低コスト構造にプラスして、日本に肩を並べる技術力をつけようとしています。つい5〜6年前まで電池をつくっていた専門メーカーが、リチウムイオン電池をバッテリーとして搭載した純電気自動車を動かし、量産しようとしています。世界の大手自動車メーカーになろうともくろんでいます。
 いずれ多くの分野のものづくりで、いずれ日本は中国に勝てなくなるでしょう。多くの製造業が淘汰され、業界の再編が余儀なくされるでしょう。
     
  では、日本は何で食べていけばいいのでしょうか?

     医療福祉?サービス産業?農業?

  いや、もやは成熟した日本は成長などしなくてもいいのでしょうか?静かな日本のままでいいのでしょうか?


  
  僕には、この先の道筋がまだみえません。ただ、若者たちが元気でいられる社会環境、ビジネス環境をつくっていくことが大切のような気がしています。がんじがらめになった法規制やルールを少し緩める。もっと法の抜け道を与える。
 日本に必要なのは「自由」さではないか。
 
  固定概念や社会通念を超えた自由な発想が許される社会づくりではないかと思います。


 
    
  いま、僕が心配なのは日本の静けさ。まるで負ける前触れのある選挙事務所のようなその静けさです。自民党にとどまらず、日本そのものが落城しそうな静けさです。

光の粒

 人の思い出は、光の粒が寄り集まってできているのかもしれない。
  空気の汚い広州の夜空にも、雲が晴れて星が輝くことがある。きらきらと点滅して。


  
  光の粒が、いま彼女に降り注ぐ。


  世界中から光の粒が集まってきて、
   彼女と生まれてきたばかりの彼女の子供に降り注いだ。

   最後は、彼女自身が光となって眩しいぐらいに輝いたかと思うと、
     突然僕たちの前から姿を消してしまった。
              残酷にも、そこにはもう彼女の姿はなかった。


   ただ、いまは美しい思い出の光の粒がきらきらと輝いてみえるだけだ。


   遠く中国にいて、そんな風に僕は彼女の最後を感じていた。
    



夜空に輝く星や銀河の光は、何億年をも過去に発せられたものもあるという。
  過去と現在、そして未来はつながっているし、いつでも同時に存在している。
  


 30数年間だけだったけれど、彼女が生きている間に発した光の粒は、
  ずっと宇宙の彼方まで飛び続け、いつまでも生き続けていくのかもしれない。

   きっとそうに違いないし、そう信じていたい。





 14日、元気な男の子をこの世に生み落とし、直後に亡くなった故郷の仲間へ。
    

走る女

朝、会社までの通勤路では、多くの若者たちとすれ違う。
 20階建てほどの古いオフィスビルがあって、彼らはたいていその中に吸い込まれていく。

  彼らと逆方向に歩きながら知らない彼らの1人ひとりの顔をみて、私は中国という日常の中に暮らしながら、海外という非日常の中にいることを実感する。
   

 
 中国へ来て5年が過ぎた。
  流れに逆らったはずなのに、時間には逆らってなかったことにいまさらながら気づく。

   「5年と言葉では言うけれど、簡単な事ではないと思う」とある人は言った。

   どうりで免許も書き換え時期になってしまうわけだ。パスポートも更新したっけな。


 その歳月が、僕の立ち居地に変化を起こしているのだろう。

   このブログの当初の色合いから、自分自身の色が少しずれているのを感じるのだ。
    色合いのずれが、私をこのブログから遠ざけていたのかもしれない。

    別の角度から表現すれば、自分自身への興味は小さくなり、表現する必要性がなくなったということなのかもしれない。
 

  

    1ヵ月ほど前のある朝、通勤時にすれ違った女性は走っていた。始業時刻に遅れそうだったのだろう。
  顔ははっきりみえなかったが、朝走る女は美しくみえた。


      深い意味付けなどなく、ただそのことをここには書こうと1ヵ月前から考えていた。

ルカ

僕の愛犬、ルカが死んだ。12歳。犬としてはもう高齢だった。

 
 15日夕方に長野の実家から中国の僕の携帯に電話がかかってきて知った。

  僕が帰国した4月初旬。少しやせたルカの体が気になっていたが、僕が中国に戻ってからはほとんどえさを食べなくなってしまっていたという。
  病院につれていったが原因がはっきりしなかった。
   死の数日前からペット病院に入院し点滴を受けていた。一時は回復したかにみえたが、力尽きた。


 
 ルカは、奄美時代からの友人だった。名瀬市内(現・奄美市)の雑貨屋で3000円だかで購入した雑種。女の子らしくとてもきれいな顔をしていた。

 沖永良部島の海岸で、潮が引いた珊瑚棚の上をいっしょに歩いたのを覚えている。白い砂浜を僕といっしょにものすごい勢いで駆けずり回った。その時からルカは水浴びが大好きになった。

 僕が中国にわたってから5年。その間は年に1度会えるかどうか。
 でも、僕が実家の玄関に戻ると、体いっぱいに喜びを表現して、僕の顔を一生懸命になめてくれた。

 5年間は両親が世話してくれていた。

  ルカのために日本に帰らなければなんて思うこともあったが、僕は中国での仕事を、中国での生活を優先した。
  中国での仕事をものにしないと、僕は帰れないと思っているからだ。いまもそう。


  ごめんね、ルカ。でも、ありがとう。12年間は僕の大切な時間でした。本当にありがとう。


  ルカは、実家の庭の隅に埋葬された。


  翌朝はいつもより早く目覚めた。
 
  大切なものを亡くしたという思い。
  奄美の海岸での水浴び、冬の雪の中での駆けっこ、春の山菜狩り。奄美からの日々を振り返った。

  スヤスヤと眠る彼女の横顔をみていると、こんな日常も宝物のような時間のように思えて、ぎゅっと強く手を握り締めた。
  
 

メモの空白に

夜桜をみた。

5年ぶりの日本の桜。
 
  桜の花びらのハート形が、アスファルトに模様をつくる。

  心の中で自由自在に花びらを動かし、形あるものを描いていくことはお手の物だ。

 
  



先々週、日本へ一時帰国した。
いつも一時帰国は正月か冬。桜が満開の季節に出合うのは、実に5年ぶりだったのだ。


信州は、静かだった。

 景気が低迷しているからではないだろう。


  静けさは、自分の内にあるのかもしれない。
   ざわついた気持ちの中で、逃げるように中国へ旅立った5年前の春を思い出した。


  そして今、ざわめきの消えた心の中で、ゆっくりと花びらを動かす。


  



 そう、15年近く使っている皮の手帳を初めて修理に出した。
     油が塗られ、生まれ変わったかのような手帳が訴えていた。

  メモの空白に書いた。「4月4日、夜桜」。




 

  僕を誘惑する美しい日本の夜桜は、しばらく脳裏から離れそうにない。