四十雀の囀り日記

路上をゆるりと歩いたり、時に疾走したり。2004年から中国で暮らし、16年秋に13年ぶりに帰国しました。

中国が日系企業を必要とする理由


ピンチの時こそ、攻めの姿勢が重要」―2013年以降の日系企業が、心に刻んでおかなければならない言葉だろう。中国が今後の安定的な成長に日系企業を必要としているという事実がある限り、日本企業の商機はまだこれからも続く。日系企業は中国に挑み続け、日中間のビジネスをさらに深化していくことになる。

 

9月の対立の激しさを受け、日本の書店やニュースサイトには、中国脅威論が派手に立ち並ぶ。中国との関係を完全に断ち切って撤退せよとか、長期化する影響に備えて東南アジアなどへリスクを分散させよと呼びかける。

ところが、北京市内のある中国人女性は「あれは中国の若者たちにとっては“お祭り”だった。それ以上の深い意味はない」と言う。女性は「自分を含めて、中国人は熱しやすく冷めやすい性格」だとして、日本製品のボイコット・買い控えもそう長くは続かないとみている。持っても半年から1年以内ではないかという。

日系自動車メーカーの中国での新車販売台数も、11月から前年同期比での減少幅が縮小するなど、回復傾向が出ている。

半年から1年間を「短い」とみるか、「長い」とみるかはそれぞれの判断に分かれるが、5年、10年、20年先の長期的な日系企業の海外戦略からみれば、かなり短い。あっという間。ここで判断を誤って撤退すれば、逆に中国市場に拠点とないその日本企業の業績への影響はもっと長期化するという、皮肉な結果が待ち受けているだろう。

 

幕引きを模索する中国

中国側のスタンスの変化は既に顕著だ。

リベラルな新聞として知られる「経済観察報」は1126日付に、中国工商銀行の楊荇、朱妮両アナリストの寄稿を大きく掲載した。タイトルは「日中間の争いは中国経済の回復に不利」だ。

日系企業の中国経済への貢献度は大きいと論じる。トヨタだけでも販売店を含めれば中国に3万人余りの雇用を創出している。中国の4番目の貿易相手国である日本から輸入している電気機械や輸送設備、金属、加工品は国内の電子や自動車産業には欠かせない原部材で、国内では代替できる製品や技術がまだないと指摘。「日本企業の撤退や(東南アジアなどへの)移転が続けば、中国経済の安定成長に不利になるだけでない。中国は、日系企業の力を借りて国内の産業構造を高度化する機会を失うことになる」と、実にストレートに中国側も損失を被るとの懸念を表明した。当局の監視下の中にある地元の新聞がこの寄稿文を掲載すること自体、過激な世論を鎮め、対立の幕引きを図っていきたい中国側の意向が表れているとみていいだろう。

5年ぶりに開かれた11月の第18共産党大会で、習近平氏など次期の新指導部に中国を引き継いだ胡錦濤国家主席は、20年までに「小康社会」(いくらかゆとりのある社会)を建設する目標を堅持発展モデルの転換を加速させ、都市化や産業構造の高度化、サービス産業の発展で内需拡大を目指す――などの目標を示した。

人件費や物価の上昇などで、ローテク製品を生産して輸出で稼ぐ「世界の工場」としての中国の優位性は失われつつある。都市化などで内需型の産業構造へと転換できなければ、13億の民の多くが職を失い、社会が不安定化してしまうだろう。産業の高度化で先を行く隣の先進国、日本企業の経験や技術を必要としているのは言うまでない。

現地化がカギ

どんな日系企業も必要とされているわけではない。人海戦術に頼った、中国企業でも作れる付加価値の低い製品の工場は今後、政府からの援助もなく淘汰されていくだろう。中国の産業構造の高度化には役立たないからだ。それは日系企業に限らず、中国企業も同じだ。

「このままでは中国でこの会社は生き残れない」と、ある日系企業の関係者は自白する。そう危機感を抱くのは、今回の対立事件が原因だったのではなく、あくまで事件がより一層中国生産の厳しさを鮮明にしただけだという。

中国で生き残るためには、生産の効率化、新商品の開発などで付加価値を高めていく努力が必要となる。いずれ米国を抜いて世界最大の消費市場となる中国で日本企業が稼ぐにはやはり、優秀な中国人を育て、現地向けの商品を生産、販売していく本当の「現地化」も鍵となるだろう。

9月の事件では、華南地区では日系工場の一部で、従業員のストライキやサボタージュにまで転化し、一時的な生産停止を余儀なくされるなど、若者たちの激しさは度を超していた。「こんなところではやっていけない。撤退するところも出てくるだろう」と、関係者も落胆した。ただ過激な行動に出た中国の若者たちに対し、感情論で対処すればどうしても角が立つ。ケンカになるだけだ。

日本企業の力を借りて産業や社会を高度化しようとする中国の現実を冷静に見極め、日系企業が中国人社員の生活も幸せにし、中国全体にも貢献する意思を貫いていけば中国人もついてくるはずだ。

 

最後に記すのはスイス生まれの哲学者でエッセイスト、アラン・ド・ボトンの言葉だ。

悲観主義は気分によるものであり、

楽観主義は意志によるものである。

 

 

日本のマスコミが「中国撤退」を煽る理由

多くの日本のマスコミ、ジャーナリストたちは、激しい反日デモを受けて、「中国から撤退すべき」「アジアシフトだ」などと自論を展開した。煽ったといってもいいだろう。ところが、中国の現場にいる日系企業関係者からはむしろ、「いま撤退すれば中国での商機を失い。むしろ中国の思うつぼ」だと指摘する声が少なくない。では、なぜ日本のマスコミは、現場の意見を無視してまで中国撤退を叫ぶのか?

 

■勢いづく欧米・韓国系

中国に駐在するある日本企業関係者は、「闇雲に撤退すれば、欧米系や韓国企業に利するだけに終わり、日本企業や日本社会のためにはならない」と、現実を無視した単純すぎるマスコミの撤退論を警戒する。

市場が拡大する中国では、まだまだ環境技術などで日本企業の優位性は大きい。現場を知らないジャーナリストの声に騙されて、中国でのチャンスを失えば、他の外資にシェア奪われ、日本本社も立ち行かなくなるだろうという。

反日デモ後、勢いづいているのが、欧米系や韓国系企業だ。自動車市場では、日系メーカーの9月、10月の新車販売台数が軒並み5割近くの大幅な前年割れとなる一方、欧米系や韓国系が2桁台の伸びを記録している。「反日デモで日系ブランドの市場を食っているだけ」と、業界関係者は冷静に分析する。

■読者の受けがいい「反中」

「反日デモ」→「中国撤退」という単純すぎる論理展開は、過去の反日デモでも展開されてきた。ここ5、6年ほどの話ではない。70年以上前の戦前のマスコミにも同じ論理展開があるほどだ。

いつの世も変わらない中国撤退論は、新聞記者やジャーナリスト自身の「中国が嫌い」「中国怖い」という感情論から来た意見である場合が多い。さらに大きな背景には、「そのほうが読者の受けがいいという理由がある」、とある雑誌編集者はぶち明ける。テレビや雑誌で過激なデモの映像、写真をみせられた視聴者や読者は、反中的な意見に共感しやすく、流されやすい。

中国嫌いのマスコミ、ジャーナリストたちは、反日デモが起こる度に、「そら事来たことか!」と勢い付き、その度に撤退論を展開する。これのほうが、読者の受けもいいし、読者も多く獲得し、飯が食えるのだ。

読者受けする目立つタイトルになるのなら、日中の経済・政治的な関係性の深さ、中国市場の大きさ、中国市場に注力する日本企業の事業戦略などの現実は無視してもよい。日本の世相に迎合したほうが得策なのは言うまでもないだろう。

これは、昨年の福島第一原子力発電所の放射能漏れ事故を受けて、放射線被害や原発ゼロを過激に訴え、福島からの市民の避難、海外への逃避を唱える人と何ら変わりないだろう。私たち日本人がまず警戒すべきなのは実は中国ではなく、中国の現実を知らないまま感情で「中国論」を語り、自ら日本を陥れてしまう日本のマスコミや世論のほうかもしれない。

 

燕京の雪

ギシギシと自分の足音をかみしめるように白くなった北京の道を歩く。
雪は街の雑音を消し去ってくれるのだろう。


2000万人が暮らすとされる喧噪のこの街も、
雪が降り積もった早朝は古の都の静けさを取り戻す。
時空を超え、歴史に消えていった有象無象の人々の雑念、怨念さえも細雪に結晶して地面に降り積もっているかのよう。


ただ1点、赤黒く染まった雪が純白の大地を切り裂いていた。
人の血か、怪我をした動物のものか、それともただの私の錯覚なのか。
人々の無数の足跡は、その鮮明な色を避けて通り過ぎていったのが分かる。



どこまでも貪欲な狩人たちの痕跡もそっと指で振るい落とせる雪の日。
赤に染まった雪だけが、凍える北京の今を象徴しているかのようだった。



1年ぶりに日記を記してみる。

日中の企業間で逆転する賃金〜〜もう中国人を安く雇えない

日本人と中国人の賃金が逆転しつつあります。


これは統計的な見方ではなく、あくまで北京で暮らして身近な人々から感じることです
中国の平均賃金とか1人当たりのGDPは確かに、まだまだ日本の5分の1程度にとどまっています。
それはひとえに13億という巨大な人口のせい。GDPを13億人で割れば、当然平均は小さくなります。


ただ、問題なのは中国で増えている高度技術者や管理層など中間所得層の人々です。
日本人と同程度かそれ以上の高等教育を受け、欧米や日本への留学経験があり、ずれのない世界観を持ち、そして高度なIT技術を使いこなす彼らの賃金です。


私の老婆(中国語で妻の意味)の知り合いのAさん(男性)は、かつて華為という中国通信機器大手の日本法人で技術者兼営業をとして働いていました。
ですが、昨年3月に日本を襲った東日本大震災、福島第1原子力発電所の事故を受け、彼の妻(中国人)が先に北京に引き上げてきました。


Aさんも北京に戻り、日系大手メーカーで現地採用となったのですが、
月給は8,000人民元と、たったの10万円足らずでした。年収120万円しかなりません。


これでは北京で家も買えません。
市内(四環路以内)にある新築住宅の平均単価は約3万人民元(約39万円/1平米)以上です。
一般的な広さの150平米の住宅なら450万元と、約6,000万円もします。
ローン金利は7%ほどなので、頭金なしで30年ローンなら返済総額は1億4,000万円近くになります。
年収120万円の人間が120年分の賃金をすべて住宅に投じて、やっとまともな家が手に入るのです。
現実的ではありません。



ところが、最近Aさんの日本での営業経験、技術力などを見込んだ華為のライバル、ZTEが現れました。
彼をZTEの日本法人で雇いたいとスカウトし、提示してきた賃金は年収900万円でした。


優秀な中国人を120万円でしか雇えない日本企業と、
900万円でスカウトし、積極的に世界展開を狙う中国企業
企業としてどちらに勝敗があるのでしょうか。
人材の使い方が問われています。


果たしてAさんは北京の日系大手企業で月収10万円で働くことを選ぶでしょうか。

被災地から3000キロ離れた場所から

私はいま、日本・東北地方の被災地から、3000キロ以上離れた場所にいます。
広東省広州市
こちらでは日本人も1万人余りが暮らしています。


11日、午後3時ごろだったか、中国のテレビでも日本で大きな地震があったと流れていました。私はいつもの地震だろうと、その時はあまり気にせずに日常に戻っていました。

ところが、夕方になってから彼女が「日本が大変なことになっている」と、テレビのニュースを見て言いました。東北の町に津波が襲う映像が流れてきました。

ことの重大さに初めて気づきました。
すぐに長野にいる家族に電話をして安否を確認しました。幸い家族や親戚などに直接の被災者はいませんでした。


それから1週間以上、中国のテレビでは大震災と福島原発の事故が連日大きく報道されました。日を追うごとに次々に被害の甚大さがこちらにも伝わってきました。
まるで映画のような映像。自分の母国で起こったこととは思えないほどの衝撃を受けました。

私はメディアを通じての情報しか知りません。
被災者がどんな苦しみの中にいrのか、絶望の中にいるのか。本当のところは分かりません。


震災前と、その後の世界観が変わり、日本を眺める風景が一変してしまったように感じます。


ただ世界では、そんな絶望の中でも、どんな災害に遭おうとも、日本人はとても秩序を守り、礼儀正しい民族という高い評価が浸透しているように思います。同じ日本人としてとても誇りに思います。



泣き喚いたところで起こってしまったことは何も変わらない。取り戻せない。

たぶんそれは、古代から永遠と繰り返し日本列島を襲った自然災害が、自分たちではどうしようもなく大きな自然の力に対する畏れを私たち民族の遺伝子の中に組み込んでいき、何事にも常に謙虚にならざるを得なかったからだろうと思います。崇高な理念や理屈など打ち砕いてしまう自然の力をまざまざと感じてきたからだと思います。


壮絶な映像が中国でも流れたためでしょうか。
いま、中国の人々の心を動かしています。
中国の友人や知り合いからも「日本の家族は大丈夫か」という電話をいくつも受けました。
たくさんの人々が被災地の人々のことを心配し、応援してくれています。

広州の日本領事館に寄せられる義援金の半分以上は、中国の普通の人々、しかも日本とはまったく関係のなかった人からだそうです。利己的だと思われていた人々からの多く寄せられる気持ちに、現地にいる日本人の考え方も変わりつつあります。


遠くにいるから私は直接に何の手助けをすることはできません。
だからこそ、いま日本のためにここ中国で自分の仕事をやることが私の役目だと思っています。




日本の経済、政治に問題点があったことは否めません。
遠くからみていると、日本の遅々とした歩みに歯がゆさを感じています。

この大震災が、過去の日本のあり方を問い直し、新たな成長に向けての分岐点となるのでしょうか。
少し時間はかかるかもしれませんが、日本は必ず立ち直るだろうと思います。


ガンバレ日本!

遠い雷鳴

青い光が、切れ掛かった蛍光灯のように点滅して室内を照らす。
光と同時に、カーテンの隙間からみえる遠くの暗闇に、名も無きビル群が浮かび上がる。
誰かがあの窓の光の中で暮らしている。

暗闇が怖くなくなってから、どれぐらいたつのだろう。


この7月、雲南省シャングリラにあるチベット仏教の寺を訪れた。
昼間でも寺院内は真っ暗で、いくつもの蝋燭が並んでいた。
高齢な僧侶から、まだ10歳前後ぐらいの若い修行僧もいる。
地面を這い、地面から寺院の外に広がる青空に響いていくような彼らのお経の重低音に、僕はしばし心を傾けた。


彼らは何を信じているのか。

寺院の中を巡り、ぎょっと目をむいた仏像に睨めつけられた。
「何も信じていないおまえが何しに来たのか?」と問われているようだった。
位置を変えてもその目はずっと僕をにらめつけている、ように見えた。

阿修羅の顔とはこんな顔なのだろうか。
たぶんこれは仏の顔ではなく、きっと私たち人間の顔だろう。


人は、実体のないものほど信じるのかもしれない。
それは神や仏や心、希望だったり、たまにお金だったり。


でも、人はそれでいいと思う。
形あるものはいつかは変化し、醜く廃れ、土に消えていく運命の中にある。
形のない変化しない永遠を信じて何が悪いのか。信じていい。
人は古代からずっと、そうやって生きてきた。


彼はもうこの世にいない。
突然、光輝く真夏の山の中に自ら溶け込んでいってしまった。
7月の山になってしまった。まだ30歳代だった。


心に響くもの。信じられるもの。そして誰かを救う力になるもの。
それを長い旅の途上で拾っていくのが、僕ができる小さな仕事なのかもしれない。
彼や人々が生きた証を、誰かに伝えていくことが僕にはできるかもしれない。


ゴロゴロという遠い雷鳴に、近くの優しい雨音が重なりはじめた。
もう彼が去った夏はとうに過ぎ、もう10月に入ろうとしている。


もう暗闇の中であっても迷わないでほしい。
いつかは晴れると信じられる、生きる強さを身に着けてほしい。
信じられる強さを、あなたの胸の中にも。


手のひらではつかめなくても、心でつかめるものはずだから。
本当に大切なものは目に見えないはずだから。

生きるかなしみ

 ここ中国南部の大都市、広州市。その郊外にある、ハンセン病元患者が集団で暮らす小さな村を訪ねた。中国の大学生らの若者たち10数人といっしょだ。私は、ボランティアとしてではなく、単なる好奇心から参加した。

 かつて暮らした奄美大島にも元患者たちが隔離されていた施設があり、地方新聞社の記者時代に取材で一度だけ訪れたことがある。
 無理解、無知、誤解ほど、恐ろしいものはない。男性の元患者などは、病気が子供に遺伝するのを防ぐなどという理由で「断種」を強制された過去もあったという。
 中国ではどのような場所にあるのだろう、どんな人が暮らしているのだろうかと知りたくなったのだ。


 市内から列車と車を乗り継ぎ2時間。最後は、泥色の川を小さな船で島に渡る。その施設は、川の中洲のように陸地と隔離された場所にあった。粗い砂で固められただけの、いつでも流れ去ってしまってもかまわないかのような、脆い島の上に存在した。

 施設は設立から40年が経つ。元患者は20人ほどが共同で暮らす。平均年齢は70歳ぐらいで、高齢化している。ある意味、老人ホームのようなものだ。

 中国でも少しずつハンセン病に対する理解は広まりつつある。後日、乗り合わせたタクシーの運転手にハンセン病元患者の村に言ってきたよなどとと雑談をしたら、逆に運転手から「あれは簡単に治る病気。社会の無理解が彼らを今でも施設に追いやっているんだ」と力説されてしまったぐらいだ。

 10数人の若者たちと元患者たちは、一緒に歌を歌い、ゲームをし、手に手を握って戯れた。笑顔が咲いた。夏祭りで上がる、淡く切ない花火のように。
 若者たちに何ができるのか?社会から数十年も隔離されていた彼らの人生を癒すことができるのか。彼らが自ら問う。心の癒しなのか?

だが、僕が現場で感じたのは、残酷ながら

何もできない

という無力感だった。ほんの一瞬「交流」したところで、彼らの数10年という悲しみを癒すことなど決してできやしない。永遠にできやしない(ただもちろんボランティアを否定するわけではない)。
 元患者たちは、僕らの名前を忘れ去るだろう。どんなに優しくし、親切にしたとしても翌日には簡単に忘れ去ってしまうだろう。僕ら若者たちが帰った後の村の小さな暗いベットに横たわり、彼らが枕元で無意識のうちにささやくのは、実の母親の名前だったり、父親の名前だったり、兄弟姉妹の名前だったり、いっしょに暮らすことが出来なかった子供たちの名前だったりするのだろう。きっとそうに違いないし、そうであってほしい。

 そんなことを考えているとき、若者たちの喧騒の塊から、静かに離れていく老人があった。足が悪いために松葉杖をついて、さっき洗ったばかりの食器を手に持ってゆっくりゆっくりと自分の部屋に戻っていく。何十年も残酷なまでに続いてきたつまらない日常に戻っていく姿だった。僕も喧騒を逃れて、その背中を追って写真に撮ったのが、日記の最後に掲載した写真だ。


 彼らの痛みを癒すことができない僕らのかなしみ。そんなちっぽけなものは埋もれてしまえと思った。社会に忘れられても、人々から捨てられても生きてきた元患者の老人たち。人生を埋め尽くした彼らの悲しみには、ちっぽけな僕らが寄り添うことなど、おこがましくてできない。

 人は誰でも老いる。孤独になる。そしていずれは死んでしまう。それは何もハンセン病元患者に限ったことではない。
 きっとハンセン病元患者たちのかなしい背中は、僕らの遠い将来の背中でもあるのだ。自分たちだけは彼らと違う、平和な人生を歩んでいるなんて思ってしまっているのなら、あまりに人生を楽観視しすぎている。

 僕らが目を向けなければならないのは、いずれ誰もが運命として背負わなければならない孤独なのかもしれない。ハンセン病元患者と同じように最後は受け止めなければならない、同じ生きるかなしみなのかもしれない。
 彼らの寂しい手を握り、その孤独な温もりに触れ、癒されているのは僕らのほうだったのだ。


 脚本家の山田太一氏は書いている。この文章が書かれたのは、日本がまだバブルに浮かれていた20年前ということを特筆しておくべきかもしれない。

「本当は人間の出来ることなどたかが知れているのであり、衆知を集めてもたいしたことはなく、ましてや一個人の出来ることなど、なにほどのことがあるだろう。相当のことをなし遂げたつもりでも、そのはかなさに気づくのに、それほどの歳月は要さない。
 そのように人間は、かなしい存在であり、せめてそのことを忘れずにいたいと思う」(『生きるかなしみ』山田太一編・筑摩書房 より抜粋)