四十雀の囀り日記

路上をゆるりと歩いたり、時に疾走したり。2004年から中国で暮らし、16年秋に13年ぶりに帰国しました。

いかがわしさに目を向けろ

インタビュー場所のレストランにて

 俺という一人の人間はそんなに清いのか。他人を責めるほどに正しい存在なのか。
 
 いや、むしろきれい事ばかり言っているんじゃないのか。正論ばかりを他人に押し付けているんじゃないのか、という自戒は常に心の奥底にあります。これはマスコミ業界に携わっている人間が陥りやすいジレンマです。特に、いわゆる「正論」を書かなければいけない脅迫観念に縛られている、お坊ちゃま育ちの新聞業界の職業人に多いと思います。

 きのうの夜、上海である写真家にインタビューしました。若い頃に寺山修司といっしょに仕事もしたことがあり、新宿という都市を撮り続けている大物作家です。常に外国物の煙草をふかし、30分も経たないのに灰皿の中には5本ほどの吸殻が重なっています。常に目を伏せ、ときどき質問者へちらっと目をやるだけです。内向的な雰囲気すら持っています。
 ここでは詳細は書きませんが、そんな彼の言葉で一番印象に残っているのは、


 「僕はずっと人のいかがわしさに目を向けていきたい」、という言葉でした。


 大都市には、人の欲望が渦巻いています。東京でも、ここ上海でもそれは同じ。そこに無数の人が生きている。欲望を持った人が生きている。

 そこで一番重要なのは、おのれ自身にも欲望があるということです。自分自身もその街の住人であり、汚い欲望を持ったひとりの人間である、という認識です。

 おのれの欲望というフィルターを通して、街を撮る。人を撮る。その姿は食い物を探して路上を彷徨する犬のようです。他人の欲望を通してでは意味がない。おのれ自身の欲望を被写体に照射させるべき、といってもいいのかもしれません。


 

 僕は自問しました。
 僕はこれまで何をやってきたのか。社会的な規範や道徳、ルール、正論の中で人をみてきただけじゃないのか。なんてつまらない人間なんだ。そこに何か新しい発見があったのか。これから何かみつけられる可能性はあるのか。


 うろたえる僕に、彼は最後の打撃を加えました。


 「いかがわしさに顔を背けて、別のきれいなものを撮るようになったら、僕の写真はそこでおしまいです」


 俺はもう終わっているじゃないか。いや、僕はまだ始まってもいないんだと思いました。僕はこれからが本当のスタートなんだと。
 インタビューを終えて、帰宅途中にみる上海の夜がいつもと違ってみえたのは、気のせいでだろうか。

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